リオ・オリンピックが終わり、「祭りの後の静けさ」がやや漂う。地球の反対側で活躍する日本選手の活躍に、多くの熱狂や感動をいただいたことには感謝したい。ただ、メダルは獲れないよりも獲れた方が当然いいのだが、その時の調子や相手関係もあり、少なくとも当事者ではない人間が、過度に一喜一憂していたのはどうなのか・・・とも感じた。
それよりも、競技を観ていて改めて考えたのは、「日本人とは何か?」ということである。体重別の階級がある柔道やレスリングなどの一部の競技を除き、対戦する外国選手に比べて、日本選手の体格が見劣りする場面は多々あった。中には、可愛そうになるぐらいの体格差もあったが、それでも互角以上の勝負をし、メダルをとった選手もいる。
体格に裏づけられた外国選手との身体能力の差を埋めたのは、洗練された「技」であり、そしてその技を体得するための厳しいトレーニングを支えた「心」であろう。これは、よくよく考えると、スポーツの世界に限ったものではなく、産業や文化の領域でも共通する日本人特有の気質だと思う。
司馬遼太郎氏の長編小説「坂の上の雲」の主人公の1人秋山真之は、この気質を「民族的性格」「民族的能力」と表現したが、明治よりも前の時代からずっと受け継いできた日本人の「DNA」のようなものである。これが、4年に1度のスポーツの祭典でも十分に発揮されていたと思う。
目の前の現実としての経済環境をみれば、相変わらず景況は停滞気味で、将来に対する不透明感も強まっている。だからこそ、ミクロレベルではそれぞれの企業活動において、マクロレベルでは各産業分野において、日本人らしい気質を発揮しなければならない。日ごろの職務の中で各人が技能を地道に磨き続け、さらに組織としての技術・ノウハウに昇華させ、産業の基盤を強化するという、当たり前の努力が遠回りなようで一番の近道だと思う。
オリンピックでの日本選手の頑張りは、そんな努力の大切さを教えてくれているように思える。